不完全のままで
知り合いに不幸があり、複雑な心境でお葬式に参列してきました。
というのも亡くなったのが還暦前で、早かったということ。そして、お酒を飲みすぎたことに起因する死だということです。
お会いしたのは数回ですが、とても繊細で、神経質で、不器用で、すこし尖っている…そんな印象のする方でした。
人とのおつきあいが上手ではなかったので、あまり良くない印象を近くの方から聞くこともありました。
お子様が3人いるのですが、すでに離婚をされており、絶縁状態ともきいていました。
そんな方だったので、最期どんな気持ちで亡くなったのだろう、懺悔の想いがあったのだろうか、生きている意味を見出せていたのだろうか、心から悲しんでくれる人はいるのだろうかと…そんな想いをぐるぐると抱いて参列することになりました。
喪主はご長男がつとめることとなり、最期のお顔を見届けることができました。
やせ細り、決して安らかなお顔とはいえませんでした。
参列者それぞれに、いろいろな感情がうごめく式となりましたが、私の中ではっきりしたことは、その方のことは人として嫌いにはなれなれなかったということです。
直接迷惑をかけられた人は、そんなのは綺麗事だというかもしれません。その方がこれを読んでいたら、不愉快に思うかもしれません。
ですが、お酒を飲むことでしか悲しみを紛らわすことができなかった弱さや、人と喧嘩をすることでしかコミュニケーションをとることができない不器用さ、寂しくて仕方がないのに、もっと寄り添ってほしい、助けてほしいと素直にあらわすことが最期の最期までできなった弱さ全て、どれも人間味溢れるもののように思いました。
今想うことは、亡くなってからではなく、もっと生きている間に交流をもてばよかった、という後悔です。
悔やんでも、もう遅いのですが…
ただ参列して、少しだけ救われた思いありました。
3人のお子様が立派に成長されていたということです。お母さまの力があったからかもしれませんし、父のいない分、自分たちでなんとか生きていこうと結束したのかもしれません。
直感で、兄弟の仲のよさを伺うことができ、お互いを想う雰囲気に安堵の想いがしました。
お子様たちにとってどのような父親で、父の最期をどのように受け止めたのかは本当のところはわかりません。
恨むべき存在だったのかもしれませんし、理想の父親像と求めながら、その現実に葛藤する日々だったかもしれません。
それでも父の弱い背中からいろいろなものを感じとっていたのではないかなと思っています。
しっかりと成長されたお子様の存在そのものが、その方の生まれてきた意味と、生きた証なのだと思います。
ふと、先日ある人から言われたことを思い出しました。
子供はうまれた時から完璧な存在であるということ。だから、何かを教え込むことは必要なくて、ちょっとだけ手を貸せばいい。
子供の質問に全部答えられるような完璧な親になる必要はない。”お母さんわからない。教えてほしい”と。弱さをみせてもいいのだとか。
1歳の息子の行動にもハッとさせられることがあります。
教えなくても色々なことを知っていて、教えらることが本当に多いのです。
人としてあるべき姿に導いてくれるのは逆に子供の方なのかもしれません。
子供を一人の個性ある個人として価値が認め、その子供が発する声に耳を傾けて接することができるか、
極論をいえば親の務めはそれだけなのかもしれません。
母にさせてもらってまだ1年と10ヶ月。ダメダメだなぁと思うこともたくさんあるけど、
かーちゃん、不完全なままで、いいかな.. いろいろなことを教えてね。